「―――ゲェっ…ゲホ…ゲホッ…」


蛇口から流れる水が胃液の混じった吐瀉物を排水溝に流していく

暫くしても込み上げる嘔吐感はおさまらないままだが
もう胃の中には何も入っていないのか
先刻から流れていくのは濁った胃液だけで

キュ、と軽い音を立てて蛇口を閉め
傍にあったミネラルウォーターを荒れた喉に流し込む

どんなに吐いても口の中にまだ
ザラつく苦みが残っている気がして目を閉じた


抱かれる前、持田さんの舌が口に入ったとき
酷く痺れるような苦みを感じた。
それがどうしても消えない。

独特の苦みは多分あの人が噛み砕いていたあの薬だろう

「(……次の試合は8日後…検査があっても大丈夫ではあるか…)」

少量が口に入っただけの自分はともかく
あの人は大丈夫だろうか、そう思うと僅かに不安を感じ
新しいミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばす


「…ッ!」

ずきりと手首が疼くように痛み、危うく落としかけた

ジャージの袖から覗く変色した手首を何となしに見つめる
視線を上げ、目の前の鏡を見ると同じようにドス黒く変色した
首元が惨めなほどに色付いていた

あの人の指の感触がよみがえるような気がして
指先でなぞるように首を覆う

時折残る爪の喰い込んだ痕からはまだ血が滲んでいるのか
指先が微かに濡れた

「(……持田…さん)」

ゾクリと背筋が震える
あの目は俺を見てはいない、―それでも良いと思ったのは何故だったろう



「三雲…?」
「!」

振り返る代わりにジャージの襟で首元を隠す
鏡ごしの視線に自分の表情が凍りつくのを感じた

「城西、さん…」
「…三雲…お前まさかまた…っ」

大股で近づいてくる姿に身動きも出来ずにたじろぐ

襟元を押さえていた手首を弾かれ
引き千切られるようにジャージの前を開かれた


「…ッツ!?」


開かれたジャージは肩まで露出させられ
胸、肩…首と至る所に残る暴力に似た行為の痕が露わになる

城西の驚愕の声と表情には微かに哀れみさえ見えて
その視線の強さに目を逸らすことしかできなかった

「三雲!…なんだってこんな目に会ってまで
 また持田の所に……」
「……練習に支障は…出さないつもりです…」

「そんな話じゃないだろう!
 …持田の性格も…やってることも皆知ってる…
 知ってて止められないのは俺達の力不足だ…それでも
 お前一人がこんな目にあうなんて」

――酷すぎるだろう

その言葉を飲み込んだのは何故だったのか
苦々しく唇を噛む城西の姿を三雲はどこか冷め始めた目で
ぼんやりとみつめていた


「俺はキャプテンとしてお前っていう選手を大切にしたい
 …お前は若いし、技術も体格も…必死さも有る
 このチームでお前がどんな選手になるか凄く楽しみなんだ」

一言一言を選ぶように、それでも強く紡がれる言葉は
きっと優しく責任感を持ったこの人の本音なのだろうと

「キャプテンとしてじゃなくても、ただの後輩としてだって大切だ!
 皆そう思ってる…だからお前が逃げられないのなら
 俺達で持田のことは何とかする…だから……」
「…城西さん」

ジャージを握ったままだった城西の震える手を払い落とし
不安気にさえみえる城西を冷えた目でまっすぐに見やる

「……持田さんの所為じゃないです…」
「―――え?」


「俺が、願ったんです」


自分の口端が歪むように微かな笑みを浮かべているのを感じた
俺は、いつからこんな風に笑えるようになったのだろうか

「逃げられないんだと、…思っていたんですか…?」

不安に帯びた表情はハッキリと絶望に似た色に変わっていく

それが何故か滑稽で
きっと今の自分はあの人に似た色の目をしているだろうと
まるで傍観者のように遠くで思った


「…俺が、俺の意志であの人に壊されるのを望んでるんです」



天井で小さく鳴いていた蛍光灯が
うっすらと明かりを落とし薄暗い給水室が更に暗くなった

ぼんやりとしか見えなくなった輪郭
それでも力無く表情の消えた城西の姿が鏡に映り
崩れ落ちるような足取りで給水室のドアから出て行った


まるで逃げるように消えていく足音に
はぁ、と吐息を漏らして鏡に寄りかかるように天井を仰いだ


「…持田……さん…」


無意識に指先はまた傷口を這っていく

血のニオイを揺らめかせる指先を傷口から口元に伸ばし
水道水に冷えた舌で舐め上げた

「(……あぁ…)」

震える舌先が生臭く苦みを帯びた血の味に染まる

まるで痺れるような苦みは
あの人の舌先に似ていて


「(あの人とのキスは…いつも苦いばかりだ…)」



消えない苦みにゆっくりと目を閉じた




城西さんは本当に良い子ですネ!
でも良い子だからこそ救えない的な感じでひとつ。

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